「心を動かす経営──若き外国人が日系企業の社長に抜擢された理由」──OPK INTER-CORPORATION SDN. BHD.(OIC)

インタビュー/ヒューマン・ストーリー【奇跡の経営ストーリー】


田舎から日本へ──18歳、人生を変える決断

1984年、マレーシア出身の青年・余社長は、18歳で単身日本へと渡りました。

「自分を変えたい。大きく成長したい。」

その一心で、東京・吉祥寺の日本語学校で1年間学び、その後、群馬県の上武大学に進学。4年間、言語や文化の壁を乗り越えながら学び続けました。そんな大学時代、人生を変える出会いが訪れます。

ゼミの先生が、当時「株式会社をくだ屋技研(OPK)」の経営コンサルタントをしており、そこから同社との縁が生まれました。

「いろんな選択肢がありました。でも私は“大阪に住みたい”と思っていたんです。街の雰囲気も好きで、食べ物も美味しかった(笑)。」

しかし、最終的に心を決めたのは「人」でした。

当時の奥田均社長(現オーナー)との出会い──一足の靴がくれた信頼

採用どころか、内定も出ていない――そんなある日、当時の奥田均社長は、余社長にこう声をかけます。

「もっと良い靴を履いてください。」

当時は、学生でお金のなかった余社長。この日はスーツに汚れたスニーカーという出立ちでした。

均オーナーは、「商売をしていく上で、人は見せかけではなく、細部まで気を配ることが大切だ」 と話し、余社長を連れデパートへ、靴を一足プレゼントしてくれました。

均オーナーの話し方や、人との接し方、そしてカリスマ性がとてもある方だなと初対面の時から全てに感動していました。

「今でも鮮明に覚えています。“経営者って、人の心を動かすことができる存在なんだ”と衝撃を受けました。あの瞬間、この人の下で学びたい、この会社で働きたい、と強く思ったんです。」

「5年で一人前に」──覚悟の入社と、がむしゃらの日々

1989年、正式に株式会社をくだ屋技研(OPK)へ入社。

「5年間で一人前になります。もしなれなければ辞めます。でも、一人前になれたなら、私の将来を考えてください。」 その言葉どおり、誰よりも努力し、泥臭く働きました。日本での4年が経った頃、転機が訪れます。

 「マレーシア進出」──未来を切り拓いた一言

海外進出を考えているという話を告げられます。

「進出先は3候補あり、マレーシアも候補に上がっているがどう思うか?」と。

そして、最終的にマレーシアに決まりました。

余社長は即座に、自らの思いを伝えます。

「マレーシアと日本の架け橋になりたいと思っていたんです。」

ある日、創業者で当時の奥田源三郎会長(名誉会長)の自宅に呼ばれ、いろいろなお話をしました。ごく普通の会話です。

まだマレーシアの現地社長は未定。何気ない会話の最後に、源三郎会長から問われました。

「会社が生き残っていくには、何が必要だと思う?」

余社長の答えは、即答でした。

「“技術”です。」

それが、社長就任の決定打だったと後から知らされます。

本当にごく普通の会話だったので、源三郎会長から試されていたんだと知り、驚き、ショックすら受けました。

人との接し方は人それぞれノウハウがあるなあと感心したのを覚えています。

しかしこのエピソードを通じて、OPK(=経営者)の考えていることと自分の考えがマッチしている。この会社に自分の将来性を感じました。改めて、この人たちから学びたいと強く思いました。

マレーシア創業──全てを背負った「母国マレーシアでの船出」

任されたのは、新設されるマレーシア工場の立ち上げと経営。

「正直、怖かったです。毎日が不安とプレッシャーとの戦いでした。」

日本から移った新天地マレーシアは、法律、商習慣、社員マネジメント、物流、全てが未知数。日本でしかビジネスを知らない余社長にとって、ビジネスで携わるマレーシアは、新天地そのもの。また、最初のオフィスには冷房もなく、電話線を引くのに何日もかかるような環境。

「あれができなかったら…これがダメだったら…毎日眠れなかった。」

誰にも弱音を吐けず、頼れる人もいない。それでも、「あの人達が私を信じてくれた」という一心で、踏みとどまりました。

1997年にはアジア通貨危機も直撃。為替が乱高下し、物流が混乱。それでも現場の信頼と努力、何より諦めない気持ちで乗り越えました。

「最初の5年間は本当に恐ろしかった。でも、あの地獄を抜けてから、ようやく“自信”が持てるようになりました。」

誰にも言えなかった恐怖──今だから言えること

「実は…あの頃の話、誰にもしてこなかったんです。」

孤独、責任、不安。笑顔でスタッフの前に立ち続けた裏で、余社長は毎晩ひとり葛藤していました。

「でも、それを経験したからこそ、今の自分がある。」

会社という存在が、人生を変える

「私のような若造に“将来性を信じている”と賭けてくれた均オーナー。その言葉に、どれほど支えられたか計り知れません。」

田舎から出てきた青年が、日本で学び、日系企業の海外法人社長となり、地域に根を張り、社員を育てるまでになった。

「会社というものが、一人の人生をここまで変える。これは、並大抵のことではないと今だから思います。」

そして今──100年企業の一部として


株式会社をくだ屋技研(OPK)は1934年創業。もうすぐ創業100周年を迎えます。

「そのストーリーの中に自分がいること。それが本当にうれしいんです。10年、20年、30年…振り返ればあっという間。でも、そのすべてが詰まっています。」

未来へのバトン──次の世代に込めた想い

「目標は“100年企業”。でもそれは、私ひとりの力では成し遂げられない。皆さんの力が必要です。」

そして最後に、スタッフへのメッセージをこう締めくくりました。

「やり方は違っても、みんな美しい。あなたの“そのやり方”で、会社の未来を彩ってください。」



技術への思いが人の心を開いた」──それは数字ではない、信頼と共感から始まる経営哲学。
異国の地でリスクを背負い、未来を切り拓いた余社長の軌跡は、次の時代を生きるすべての人に勇気を与えてくれます。


次回、余社長スペシャルインタビューVol.2
■余社長のプライベートやこれからの展望などについて語っていただきましたので、乞うご期待。

取材日:2025年4月
インタビュー協力:
OPK INTER-CORPORATION SDN. BHD. (OIC)
社長
/MD(Managing Director)  
余漢城(イ ハンシン) /YEE HAN SENG

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人